ストレス

人生を変えた2つの大きなストレス


生きてきた中で、大きなストレスを2回経験しました。
1度目は独身時代に、就職していじめにあった時。
2度目は長男が病気をして、命の危険があった時です。

それにより、私の人生は大きく変わりました。
今回は私の経験した大きなストレスと、心身の異常についてお話したいと思います。

ストレスには強いと自信があった

私は高校卒業後、正社員→フリーター→水商売という、なんとも自由な道を歩みました。

水商売は親に隠していましたが、いつの時も私の決断を寛大に見守ってくれた親に感謝しています。

正社員で働いていた時に、人生初のいじめにあいました。
元は正社員で上の役に付いていた方が、結婚を機に退職されパートとして戻ってきたのです。

その方は新人の私が聞いてもいない仕事を突然任せたり、膨大な量の説明を一度にして一人きりにし、何時間も戻らない、など、私が困ってオロオロするようなことばかりするのです。

メモが追い付かず、聞き直したりすると、「さっき一度言ったからね。仕事できないねぇ。」と。

これが社会なのかと思いました。
高卒の私にはなかなか厳しい状況でしたが、お給料を貰っている以上私もしっかり仕事を覚えたいと思っていました。

自分で選んだ職種でしたし、やる気はありました。

他の新人にはやらないことを私にだけしてくる。
明らかにそれが他の人にばれないようにしている。

そんなことに気付く度に、私の気持ちは落ち込みました。
それに耐えるのも仕事のうち、と19歳の私は思っていました。

仕事を覚えられない私が悪いのであって、あの人はできない新入社員の指導に苦労している。
イライラするのも仕方がない、申し訳ないと思いました。

入社から2ヶ月くらい経った頃、それまでは小食な方でしたが、「食欲が止まらない」という初めての経験をします。

毎日仕事帰りにドーナツを買って、寝起きにアイスのホームパックを大きなカレースプーンに食べたりしていました。
お昼ご飯はお弁当とカップラーメンと菓子パン。

寮生活では食事が出ていましたが、おかわり出来るものも多く、ロールパン2つに食パン2枚、おかずにご飯も。

高3の卒業時には39キロだった体重が(この時の体重もどうかと思いますが・・)11ヶ月後には47キロになったのです。
食べても食べてもお腹が空き、頭痛が酷くて、鎮痛剤を毎日飲みました。

仕事が休みの日は、明日の仕事が嫌で、憂鬱でした。
1日中明日の仕事のことと、昨日仕事であった嫌なことを思い出し、部屋から出られなくなりました。

食べている時、空腹感が和らぐ時だけ、唯一満足感を感じられました。

父の言葉

就職が決まった時
3年は絶対辞めずに働きなさい。そうでなければ仕事の嫌な所しか分からず、良い所を知る前に辞めることになるから。」と父親に言われました。

私は東京に憧れがあり、夢の上京だったので、「
3年どころかもう帰って来ないよ。」と笑って実家を出たのです。

6ヶ月が経った頃、辞めたいと思うようになりました。
でも辞めたいなんて言ったら、父に怒られる・・とても言い出せません。

父が言う通り、仕事の良さも楽しさもまるで分かりませんでした。
ただいじめの苦痛に耐えるだけの毎日。

憧れの東京の街を歩くことはなく、あれ程楽しみにしていた原宿、渋谷、新宿は地元にいる時と同じように遠く感じられました。

職場が遠く、仕事終わりに真っ直ぐ帰宅しても門限ギリギリでした。
電車が混んでいたり、少し会社を出るのが遅くなると門限に間に合わず怒られることもありました。
寮生活も窮屈で仕方ありませんでした。

何のためにこんなに遠いところまで来たのか。
私は試験を受けてまでいじめられにきたのか?

でも父の言う「仕事の辛さ」とはこのいじめに耐えて仕事を覚えていくこともその1つで、後に仕事の素晴らしさが分かってくるのだろう。
ストレスを抱えながら仕事をしていくのは、世の中の社会人の全てがそうなんだろう。

沢山の新入社員が辞めていく会社でした。
私も辞めたい。
父に怒られたら、どうしよう・・。

電話

そんな不安を抱えながら、就職して9ヶ月の頃に限界を感じました。
あまりに周囲が辞めていくので、後押しされたのもあります。
でもまだ9ヶ月、甘ったれな私。
辞めたら、両親が準備してくれた全てが無駄になる。
頑張ってよ、と送り出してくれた地元の人達は、辞めた私を見たら落胆するだろうか、笑うだろうか、呆れるだろうか・・・。

その気持ちが一日、また一日と私を職場に連れて行きました。

ある日、突然に何かが吹っ切れて、父に電話をしようと思いました。
もういいや、父がなんて言うかは、辞めたいと言ってみなければ分からないのだから。

思いきって実家に電話すると父が出ました。
声を聞き一瞬言おうか迷っていると、父が「どうした?」と。
「仕事を・・・辞めたい」と言う声は震えていました。
涙が止まらなくて・・。
父はあっさりこう言いました。

「そうか。帰っておいで。」

驚きました。
怒鳴られるかと思っていたのに。
「お母さんから話は聞いていたんだ。お前の様子がおかしいと。悩んでいたんだろう。お父さんが3年は働けと言ったからだな。」

「うん・・・。」と言うのが精一杯でした。

「いいんだ。9ヶ月で3年分のことは学んだんじゃないか?お父さんはそう思う。
仕事っていうのはな、確かに嫌だからと簡単にポンポン変えるもんじゃない。
でも、お前のように嫌で嫌で、それでも我慢してするようなものでもない。
合う、合わないはやってみなければ分からない。

お父さんは嫌だからと簡単に辞めるんじゃない、という意味で3年と言っただけだよ。
それがお前を苦しめたのなら悪かったなと思う。
帰っておいで。田舎の空気を吸ったらすぐに元気になる。
なんだかんだでお母さんも喜ぶんじゃないか?」

意外な父の言葉が遠くに聞こえました。
あの職場から解放される・・かける前はあんなに重く感じた受話器が軽く感じました。

「あとは職場に迷惑にならないようにちゃんと相談して決めて、会社から言われた日数は責任を持って勤めなさい。
いいじゃないか、明日辞めるって言えば。
すっきりするぞー!!」
と笑う父。

足を取られて抜け出せなかった沼から、父が手を引いて救い上げてくれた、本当にそんな気がしました。

退職

その2ヶ月後、私は実家にいました。

一気に痩せて体重は元通り、辛かった日々などあっという間に忘れてしまったのです。
この就職の経験が生まれて19年の間に1番強いストレスがかかった時でした。

そこからフリーター、水商売をして過ごすのですが、気ままな日々でした。
かけもちで一日13時間働いていた時も2年くらいありましたが、年齢も20代前半でしたし、彼氏がいたり気の合う友人と毎日のように遊んだりして、自分はストレスに強い、ストレス発散が上手だと思っていました。

嫌なことがあったら、遊びに行ったり寝たり。
若さと時間と、歳のわりには持っていたお金。
ストレスとは無縁な感じですよね。

それでも私はストレスと付き合うのが上手い!!と自信があったのです。

就職の一件も一つの自信でした。
あのまま我慢してボロボロのまま働かずに、辞める決断をした自分を自分らしいと思いました。
一度実家に帰った後数ヶ月で一人暮らしを始め、更にまた上京し、水商売だけで生活し始めました。

キラキラ光る歌舞伎町のネオン、ショータイムのライト、着飾った自分の姿に男と女とお金。
何十万というお金が目の前で流れていきます。
就職した時の会社とは別世界。
ここは私が選んだ掴んだ道なんだ!!と絶好調だった25歳までの私(^^;

就職していた時に毎日頭痛がしたのも、部屋から出られなくなったのも、過食になったもの、すぐに涙が出たのも、何故そうなったのか考えもしませんでした。

辛いのをを認めたくない

20代半ば、妊娠を機に店を辞めました。
私が水商売をやるには期限があると思っていました。

20代のうちに辞めようと思っていたので、大好きだった仕事でしたが辞める時に未練はありませんでした。

それよりも、子供ができたことが嬉しくて、妊娠検査薬の陽性反応を見た瞬間に母になった気がしました。
私はそれまで子供が大嫌いだったのに、たった1本の陽性反応を見ただけで、視界に子供が入るようになったのです。

街中で騒いでいる子供の声も、それまでは煩く思っていたのに、微笑んでる私がいました。

人ってこんなに変わるんだな、私はお母さんになれるんだ!と浮足立っていました。
それと同時に酷い悪阻に、対応出来ませんでした。

知識もなく、どうしてよいのか分からず、とにかく吐き続ける毎日にこんなことで母親になれるんだろうか?子供が具合が悪い時に看病ができるんだろうか?と不安になるようになりました。

私の体調不良に無関心な夫を見ていると、子供の具合が悪い時もこうなんだろうか?私一人で看病するのだろうか?と思うと胸の奥がザワザワしてくるのです。

この時心気症を発症したのだと思います。

でも私ならやれる!みんなやっているんだから!と根拠のない自信もありました。
ぼんやり霧の中に隠れていくら目を凝らしても見えない、出産育児というものに、不安になったり自信が沸いてきたりしていました。

妊娠中の私は不安定で、毎日泣いては自分を責めてお腹の赤ちゃんに謝ってばかりいました。

出産し、大きな不安の中で育児は始まりました。
夫は子供に興味はなく、それまでの生活を変えませんでした。
家に子供がいるのなんて見えていないかのようでした。

それでも長男は可愛くて、私が頑張らなきゃ!!と思いました。

街行くお母さんを見ては、何でもテキパキこなして赤ちゃんも軽々抱っこして・・やっぱり昼の仕事の人は違うな・・。

私が長男を上手く抱っこもおんぶもできないのは、水商売のような重い物を持たない生活をしていたからだろうか。

あんなに好きだった水商売も、そのせいで私はこんなに駄目な母親なんだろうかと思うようになっていました。

長男が8ヶ月くらいだったでしょうか、まだ挙げていなかった結婚式をやることになりました。
夫は「杏の為にやるようなものだから、全部杏が決めていいよ。」と言い、何の意見も出しませんでした。

周囲には「全部お嫁さんの好きなようにさせてあげるなんて、なんて優しい旦那さんなの!」と言われ、気分が良さそうでした。

出席者150人。
ほとんどが夫の側の人達です。
その打ち合わせをする為に、まだ8ヶ月の長男をベビーカーに乗せて、何度も通いました。

当時26歳、5年間の水商売でまだ昼夜逆転の生活、結婚式の常識なども知らず、1から説明を受けて覚えていくような状態でした。

衣装合わせでは長男が大泣きし、ベビーカーから落ちそうになったり、打ち合わせも毎回飽きては泣いてしまいます。

何度夫に「泣いて大変だから、一緒に来て欲しい」と頼んでも、「だって杏の為の結婚式だから俺は行っても意味がないよね」と。

そうじゃなくて、長男を見ていて欲しいんだと頼んでも、「仕事が忙しい」「俺もそういうのはよく分からない」と、来てくれません。

私は産後風邪をひきやすくなり、よく市販の風邪薬を飲むようになりました。
ある時から服薬後みぞおちと背中が痛むようになり、暫くすると治まるのですが、薬を飲む度に痛みます。

背中が痛いという経験がなかったので、不思議で仕方ありませんでした。
市販の胃薬を飲むと少し楽になるのですが、痛みはだんだん強くなり、横にならないと治まらなくなりました。
痛い時は決まって寒気がします。

何度目か時に、痛くて痛くて動けなくなりました。
胃薬を飲んでも治まらず、横になっても治まらず、寒くて鳥肌が立ち、長男を見ていられなくなってしまい、夫に電話。
そのまま救急車で運ばれました。

病院での診断は、急性胃炎
背中に痛みが回るのは、胃炎が酷くなっている状態だそう。
寒気がするのは熱が上がっていたようです。

点滴をしてもらうと、嘘のように楽になりました。
この時から8年近くも胃炎は続きます。

この時も、「育児中だし、胃炎くらい仕方ないよね。胃が痛くなるってよく聞く話」と思いました。
苦労している自分を、「母親らしい、頑張っている、でもそれくらいやって当たり前」と思ったのです。

過去最大の悲しみ

外食が原因で長男が1歳8ヶ月でO-157に感染した時、私の心気症による「大きな病気にかかるかもしれない、それに対応できず、とんでもない結末になるかものではないか」という病的不安感は現実のものになりました。

その時の恐怖感は物凄かったですが、長男が快方に向かったにも関わらず、私は体調はどんどん悪化していったのです。
頭痛、眩暈、吐き気、不眠、悪夢、一日中止まらない涙、フラッシュバックによる幻覚、幻聴、・・
それでも単なる体調不良だと思っていました。

あんなに大変な思いをしたんだから、疲れも出るだろう、と。

今日も治らない、明日は少し良くなるかな・・あれ今日も具合が悪い。
歩くのも辛い、ご飯も食べられない、眠れない。
退院したはずの長男の腕に点滴が見える。
医師に告げられた「今日から3日間が山です」という声が一日中聞こえてくる。

長男の病気はもう治ったのか、それとも今はまだ病院なのか分からなくなってくるのです。

日常生活は混乱し、それは子供の面倒が見れなくなるかもしれない、という怖さを生みました。
内科、耳鼻科、胃腸科とあちこちの病院に行くようになりました。

異変

そしてある日の夜10時過ぎ。
呼吸が苦しくなってきたのです。
上手く息が吸えない。
とても苦しい。
私は怖くなり、救急に行きました。
レントゲンと酸素濃度を測ってもらいましたが異常なし。

その時医師に「ストレスはありませんか?ストレスでもこのような症状が出るので、少しゆっくり休んでみて下さい」と。
ストレスで息が苦しくなるなんて知りもしませんでしたので驚きました。
ストレス症状とは単に「イライラする」だと思っていましたから。

その後もあちこちの病院通いは止まらず、様々な検査を繰り返しました。
私の様子を知った姉が、「帰っておいでよ、少し休んだら」と言ってくれました。
姉は実家のすぐそばに嫁いでいます。

両親は猛反対でした。
「お前は旦那のご飯も作らずに、実家に戻ってくるのか?嫁ぐとはどういうことなのか分かってるのか?困ったからと実家を頼るんじゃない。お前はもう、他の家の人間になったんだぞ。」と父。

でもそんな父親を姉が説得してくれたようでした。

帰省

フラフラと帰った私に姉が言いました。
「精神的な病気じゃないの?」と。
姉の家には心の病の本が沢山ありました。
知らないうちに姉が調べてくれていたのです。
本にはあちこちに付箋がありました。
うつ病のページにも付箋が付いていました。

でも私にはあまりに検討外れな話に聞こえました。
「心の病気?私が一番縁のない話だと思うけど。」

「ほら、ここも、これも杏に当てはまる」
確かに当てはまる部分はありました。
「でも私は絶対うつ病じゃない。体調が悪いだけなの。
心はすっごい元気。うつ病ってさ、どんよりくらーい感じでしょ?無気力になるんだよね。
私は体調さえ良ければ、やりたいことがたっくさんあるの!京介と走り回りたいくらいなんだから!!」と笑う私に

「でも体調不良に悪夢ってあるの?毎日そんなに何ヶ月も続けて人が死ぬ夢を見る?」

死・・・・・・

「・・・。怖かったからじゃない。京介が死にかけて、凄く怖かったから・・・。」
そう言うと、ここから3日間が山です」という声が聞こえてきました。

「ほら・・また・・死んじゃうかもしれないって。京介・・おしっこが真っ赤で・・・内出血が・・・」とボロボロ泣けてきたのです。
「もう治ったんだよ、京介は元気にそこでテレビ見てるじゃない。」

「そう・・治ってまたテレビを見て欲しい・・。」

「杏、どうしてご飯をちゃんと食べないの?」

「だって、食べ物にまた菌が付いていたら?それで今度こそ死んじゃうよ。京介に食べさせないことはできないから、代わりに私が食べないの。もう絶対菌がついていないって保証がある食べ物はどこにあるの?」
当時の私の体重は37~38キロくらいでした。

「杏、精神科に行ってみよう?私予約するから。」と姉。

初めての精神科受診

後日、姉は本当に予約を取ってくれていました。

田舎育ちなので、精神科は車で1時間以上もかかります。
姉が乗せて行ってくれました。
「行ってなんか意味あるの?体調不良なのにさー。」という私に
「私が興味あるだけだよ。精神科って一度中見てみたかったから。ちょっと話聞いてきて、どんなことを話すのか教えてよ。帰りは買い物して帰ろうね。」と。

初めての精神科での診断は、仮面うつ病でした。
聞いたことのない病名。
気持ちの落ち込みなどはなく、身体症状が現れるうつ病だそう。
そう説明されても、うつ病なんて信じませんでした。
私の中ではまだ、うつ病は気分が落ち込むもの、だと思っていたのです。

診断名を姉に言うと「ほら、やっぱり!!!」と。
薬はテグレトールとパキシル20mg、マイスリーでした。

その日飲んで寝て、朝起き、立ち上がると、グルーっと視界が回り、転びそうになりました。
よろけてバン!!と壁に手をつき、「なにこれ、笑える」と1人部屋で大笑いしたのを覚えています。

そこから長い長い精神薬とのお付き合いが始まりました。

まとめ

就職した時は「社会人なんだからストレスがあって当たり前」
母親になった時は「母親になったんだから辛いのは当たり前」

そしていつの時も「耐えて当たり前、だって皆そうやって頑張っているんだから、私も頑張って当たり前」と思っていました。
それが、私がストレスを抱えやすい理由の一つです。

でも、そんなことはないのです。

皆が同じようにやっているように見えても、環境や性格が違うし、それは外から見えません。
大丈夫だったり、うまくいかなかったり、得意だったり苦手だったり、育児にはやってみなければ分からないことが沢山あります。母親になって知らなかった自分が見えてくることもあると思います。
そこに子供の個性も入ってくるのですから、誰かを基準に育児をすることは苦しいだけです。

就職した時にいじめに会い、いじめられる人の気持ちが少し分かりました。
幸い就職するまで沢山の友人がいて楽しく過ごしていましたので、あのままではいじめられる側の気持ちは理解できななかったでしょう。

そして妊娠期から始まった鬱。
日常生活が送れない程の精神的な苦痛というのも、気楽に水商売をしていたままでは理解することはなかったと思います。

我が家では、長男、次男と登校が困難であったり、心身の不調を訴えることが多いです。

そんな時に「辛いのは皆同じ。楽して生きるなんて間違いだよ。皆頑張っているんだから、頑張らなきゃだめ!」などと言ってしまったら、子供達を深く傷つけていたでしょう。

今となっては早いうちに辛い思いを経験できて良かったと思っています。
いつか子供に「仕事を辞めたい」と相談された時、「根性無し!!」なんて言えなくなってしまったのですから。

昔の私は本当に無知で、人が生きるも死ぬもどうでもよくて、あまり人間らしくなかったように思います。
そんな自分を叩き直されたような気がしています。

鬱病の時は辛くて、あの時よく死ななかったなと今でも思うのですが、私の場合はそれくらいのショックがなければ、人間らしくなれなかったのかもしれません(^^;

以前長男が「お母さんが親で良かった。話すことをちゃんと理解してくれる。」と言ってくれました。
過去の辛かった経験から理解できることが増えたのは確かなので、長男からの言葉を貰えた時は嬉しかったです。

ただし!!

鬱病は病気であり、人間性を成長させてくれる有難いもの、なんかではございません!!

なんか流れ的にそんな風になってしまった気がするのですが、そんなことは絶対にありません。

常に自殺と隣り合わせで、病気としても死の危険があるものです。
死なないまでも地獄の苦しみです。

私が「今は鬱病の経験も生かそう」と思えるのは回復できたからです。
そこまでに鬱発病から10年近くかかっています。

鬱病になる前にストレスを発散していく、それがこのブログの趣旨でもありますので、うつ病経験についてもまた改めて書いていきたいと思います。

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